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The Girl in Lemorium
人の子よ、自分のための人生を歩めよ。

 黛灰君の引退前一ヶ月毎日配信の名越康文先生との対談で、黛君が「人類全体の幸福の上限が決まっていると思っている人が世の中には多くいる」という話をしているのが印象に残っている。つまり誰かが幸せになれば自分の取り分が少なくなる、幸福の奪い合いと解釈する人がいるということだ。一方、名越先生は、恩師が「人は産まれた時に持っている運が百パーセントだとすると時間の経過と共に右肩下がりになっていき、零になると死を迎える」と言っていた、という話も興味深かった。アドラーは周りの人間を敵と見做さず仲間であるということ、皆同じ方向を歩いているわけではなく、同じ平らな地平で、それぞれのスピードや歩いてきた距離は違えど前に進んでいる人もいれば後ろを進んでいる人もいることを実感することが幸せへの一歩だという。

 何が言いたいかというと、人の幸せを祝えない、願えない人は必ずいて、そういう人たちは『何か』と戦っているということだ。クォーターライフ・クライシスはそれが著しくなると考える。結婚に憧れるのに相手がいない自分、子供ができたとかできないとか、家を買ったとか買わないとか。もちろん他人を祝う気分になれないこともある。そういう時は幸せなオーラからそっと距離を取るのもひとつの手だ。タチが悪いのは自分が欲しいものを持っている人に憧れ、嫉妬し、そんな自分を認めたくなくて結果的に非難に走る。そんな人たちである。

 『祝う』とは何だろうと考える。願い、それが叶った歓びを分かち合い、あたたかな気持ちを共有するものである一方、根底にある黒い靄を呼び起こす。大昔は一年を生き抜くのさえやっとだったと思う。だから新年を迎えられることに感謝し、豊作を祝い、子が育つことを祝い、健康を祝った。それが当たり前になってしまった現代で『祝い』はある種の見せつけになりかねない。

 貴方はどうだ? 他人を心の底から祝えるか?

 実際、幸福は無限に湧いて出るものなのか、人類全体での取り合いなのか、私には分からない。おそらく死ぬ間際まで答えは出ないだろう。けれど本当に、心から、人の幸福を願い、おめでとうの一言が言えたとき、胸の中心が春の訪れのようなちょうど良いあたたかさがぽつりと灯ることを知っている。そのあたたかさを感じるためには自分が幸せであることを自覚するのが必須である。ありのままの自分を認め、今ある環境に納得し、毎日を過不足なく生きること。理想の自分に近づくこと。

 そう考えると現代において『心の底から、純粋に他人を祝う』という行為はとても難しく感じる。だから、もし貴方がその春の訪れに似たちょうどいいあたたかさを知っている人ならば、感じたことのある人ならば、その気持ちを大切にして欲しいと思う。他人の幸福で自分の心に黒い靄がかかるのは自分の人生を他人に委ねていることと同等なのだから。

 

『人の子よ、自分のための人生を歩めよ。』

  みかげ(The Girl in Lemorium)

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